美術作家 三橋登美栄
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新島襄之墓 2019.4.15
京都市左京区鹿ケ谷若王子山町に同志社墓地があります。創立者新島襄をはじめ、妻新島八重や山本覚馬、徳富猪一郎、同志社関係の宣教師たちが眠っています。 16歳年上の姉・馬杉一重は1957年に同志社女子大学に入学。1961年卒業以降、母校に就職。1996年に定年退職するまで家政学科で後進の指導に当たりながら、宗教主任も兼任していたそうです。 姉から新島襄之墓のお参りに行ってきた、と何度か聞いていましたが、私は訪れたことはありません。姉が2019年3月10日に天に召され、2020年5月に同志社共葬墓に姉の納骨を御許可頂いたのをご縁に、「新島襄之墓」のお参りに行きたくなりました。 今日はお天気も上々。明るい午前中を選んで南禅寺・真如堂前から歩き始めました。 ![]() 若王子神社の横に立てられた「女性の一人歩きはやめましょう」の看板を横目に見ながら、奥に「新島襄・八重の墓」の看板が見える所を右折して山道に入ります。 ![]() 少し肌寒く感じる木漏れ日の中、ウグイスの鳴き声を聴きながら石段の山道を登り始めます。所々に案内標識が立っているので迷う心配はありません。 ![]() 熊野若王子神社の墓地を左手に見ながらさらに坂道を登ります。 ![]() 優しいミツバツツジの花々に心が和みます。 ![]() この辺りは京都市営若王子墓地で、あちこちに墓石が立ち並んでいる所を通り抜けてさらに進みます。 ![]() 若王子神社から約30分で同志社墓地に到着。正面に新島襄之墓があります。 新島襄は天保14年(1843)に安中藩の武士の長男として生まれ、21歳でアメリカへ渡ります。明治7年(1874)にキリスト教の宣教師として帰国。明治8年(1875)に、現在の同志社大学の前身となる同志社英学校を設立します。しかし明治23年(1890)、大学設立のために奔走していた彼は滞在先で倒れ、神奈川県大磯で息を引き取ります。享年46歳。彼の遺体は、彼の父親が眠る南禅寺の墓所に埋葬するはずでしたが、キリスト教徒であることから、若王子山の京都市の共同墓地に埋葬されます。その後、墓所の一角は「同志社墓地」となり、同志社大学ゆかりの人たちと共に安らかに眠っています。 ![]() 山道では誰にも出会わずに同志社墓地に到着。70代ご夫婦に出会ってほっとしました。 ![]() 同志社墓地の一角にある同志社共葬墓 同志社関係者の希望に応えて、1973年に設けられました。現在170名余の埋葬者氏名が刻印されています。主な埋葬者は次の通りです。秦孝治郎(1890-1972)同志社理事長。 大塚節治(1887-1997)第13代同志社総長、同志社大学長。 住谷悦治(1895-1987)第14代同志社総長。 上野直蔵(1900-1984)第15代同志社総長・理事長。同志社大学長。 齋藤亥三雄(1905-1996)同志社理事長。 クリスチャンの姉は、同志社墓地に永眠することを希望していましたので喜んでいることと思います。 「この生命は 人の光なり(マタイ 一の四)」 アーメン。 ![]() 帰り道は、南禅寺を通って蹴上まで新緑の中を歩きました。 ![]() 花吹雪に葉桜が美しいです。季節の移り変わりに驚くばかりです。
04/16 11:29 | 日々 |