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三橋實展 (2018.7.3~7.8)を終えて
三橋實展 ―はじまりからおわりへー(2018.7.3~7.8)を終えて

Tombeau (追悼曲)~叔父に捧げる追悼音楽~
 
P8080043.jpg 演奏 : 三橋桜子、パブロ・エスカンデ

3日14:00~ ルイ・クープランのトンボー、バッハのプレリュード、G線上のアリア、ヘンデルのメヌエット
4日 16:00~ ルイ・クープランのトンボー、バッハのプレリュード、G線上のアリア、ヘンデルのメヌエット、 ベートーヴェンの交響曲7番より第2楽章

≪展示作品≫
1 クレパス画「おかあちゃん」    
2 卒業アルバム 記念文集 木版画 その他資料
3 クレパス画「とけい」 木版画 年賀状
4 木版画「カラス」
5 クレパス画 風景画
6 クレパス画 紙芝居「みずべのあそび」11枚
7 クレパス画 紙芝居「ふしぎなうす」8枚 「したをだしたほとけさま」4枚
8 クレパス画 乗り物 4枚
9 筆談のメモ12枚
10 三橋實の写真 2016.3.20
11 クレパス画 紙芝居「そらとぶふね」13枚
12 クレパス画 紙芝居「おおばなとんすけさん」5枚
13 写真 娘とお別れ 2枚
14 <最愛のものたちに贈る 最期の記録> 三橋實|代筆三橋真(長男)

P5100105.jpg クレパス画「お母ちゃん」北白川小学校1年ろ組

P7050019.jpg アルバム 記念文集 木版画 資料他

「雨」 
けさおきると雨がふっていました。学校へいくときにはあまりきつく降っていませんでしたが、家を出てしばらく歩きだすと風がきつくなってみるみるうちに、えのぐばこがぬれていきました。雨が前のほうから降ってきたので、かさを前にやりました。かさを前にやったり、うしろにやったり右にかさをやったりしているうちに、学校に近づいてきました。学校の門の前にきたのでかさをすぼめて、いそいではいりました。かいだんをのぼっていくと、かさのさきから雨がぽとぽとと落ちました。教室にはいると小山さんが「本は」ときいたので「もってきた」といってかえしました。そして学校の本をよみました。雨はまだふっていました。 
1956(昭和31年3月) 北白川小学校 4年生文集 斉藤学級 三橋 実

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ENSEMBLE ’68.3 WASEDA SYMPHONY 早稲田大学交響楽団 昭和43年3月24日

僕にとってワセオケというものはどういうものだったろうか。オケでの生活が本当に充実していたとは思えないし、居心地の良いところだったともいえない。音楽の虫には到底なり得ず、音楽の何たるかもわかっちゃいない。だが一体音楽がわかるということはどういうことなのだろう。ただ好きでさえあればいいのかもしれない。とはいっても僕は本当に音楽が好きだったのだろうか。それでいて四年の半ばまで部屋に足を運ばせたのはやはり音楽の魅力にとりつかれていたせいなのだろう。しょっちゅう音をはずし、足を出したり落っこちたりして山岡さんや福富さんを嘆かせながらも、ともかくまがいなりにも合奏できることはたまらない魅力だったのだ。テクが不十分であり、オケに真からとけこめなかったのもすべて自分の努力の足りなかったためであって、オケに対してあまり貢献ができなかったことを申し訳なく思う。しかし僕自身としてはいろいろと得るところもあり、やはりオケに入ってよかったと思っている。
そもそも僕がオケに足をふみいれたきっかけというのは、たまたま兄から譲り受けた、もうそろそろ古道具屋へもっていった方がよさそうに思われるようなクラリネットを持っていたため、それを遊ばせておくのはもったいないというただそれだけのことだったのである。その頃クラシックといえば、運命・未完成・新世界くらいしか知らず、それに少し練習すればすぐ吹けるようになるだろうなどと気易く考えていたのだからひどいものである。だがすぐに思い知らされた。ワセオケちゅうとこはそんなにあまいものやおまへん、ということを。初めて練習を聞いた時の強烈な印象は今でも覚えている。聞いたこともない曲だったが(チャイコの五番だった)ものすごい迫力でもって僕の耳と目にとびこんできた。こんなすばらしい演奏をできるメンバーの一員になれたらどんなにいいだろうと思った。クラはうまい人がたくさんいるからビオラにしないかといわれ、すぐその気になった。それからビオラとの悪戦苦闘が始まるわけである。せまい下宿の自室で隣の部屋からいつ苦情がでるかとビクビクしながら練習していたこと、近所のお宮さんや公園の片すみでデート、じゃなかったビオラの練習をしたことなど今となってみればなつかしい思い出だ。
二年生になってどうやら曲の進行についていけるようになった。初めてのステージにのった時、その時はもう無我夢中だった。アッという間に二時間足らずが過ぎてしまい、気がついてみたら演奏会は終わっていたという感じだった。感慨も何もない、実にアッケなかった。その年の秋の岩城さんの時も印象深いステージだった。あの時、ビオラ族は上級生から特訓を受けた。朝早く学校に来て吹きっさらしの中で、普段でも回らない指をハーハーさせながら懸命に練習したことなど、いまから思うとつらかったけれどもそれ以上に充実していたように思う。だから本番が終わった後も、できるだけのことはやったのだという充実感があった。とてもうれしかった。そこで思うことは、どうしても人間的つながりというべきものが欲しいということである。あの時のビオラ族にはそういうものがあったように思う。ビオラ族が一体となって少しでも向上しようという姿勢、盛上りがみられた。こういうことがあるパートだけでなく、オケラ全体に広がり、そこに一種の連帯感が感じられるようになった時、そういう時こそ最も良い演奏が生まれるのではないだろうか。テクが重要なのはいうまでもないが、それプラス人間的ふれあいというものが必要だろう。特にアマチュアオケの場合そういうことが大切なのではないかと思う。
ところで僕のオケラでの生活は満足すべきものではなかったけれども、とにかく何もかも忘れて、棒なんかそっちのけで(どうもすみませんでした)ただひたすらに譜面を追っかけている時が一番楽しかった。しかし徐々にその楽しさも薄れていった。テクが思うように伸びなかったこともあるが、だんだん練習が億劫になっていった。本番まであと何日あるか、早くその日が来ないかなあと指折り数えるようになったら危険信号もいいところだ。何事にせよ惰性でやるようになったらおしまいだろう。その時にいさぎよくやめるべきだったのかもしれない。
さて僕は今後、合奏して音楽を楽しむということはおそらくないだろう。しかしこれからの長い人生においてベートーベンやバッハ、モーツアルトが聞けなくなったとしたらどんなに寂しいことだろう。だからこれからはレコードなり演奏会でせいぜいクラシック音楽に親しんでいこうと思う。そんな時、きっとあのせま苦しい音四のことを思い出すことだろう。そして聞こえてくるだろう。僕にとって最高の演奏が。(Va 三橋 実)

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「ひとりごと」 早稲田大学第一文学部哲学科東洋哲学専修
「桃源郷」 1968年 第3号卒業記念文集 昭和43年3月25日

俺はこの四年間何をしてきたのだろう。すべて適当にやってきたように思う。適当に遊び、適当に読書し、クラブ活動も適当にやった。いや適当というより、いい加減にといった方が適当かもしれない。あることに問題意識をもってそれをつきつめて考えてみるとか、ある作家なり思想哲学に感銘してそれを自分のものにするというようなことがなかった。要するにこれだけはという自分のものがないわけである。情けないことに。
授業には真面目に出席した。そして良い成績を取った。しかしそれが一体何だっていうのだろう。自ら進んで勉強したわけではないし、本当に感銘を受けた講義というのもほとんどない。大学で学問をやりましたなんてとても恥ずかしくて言えない。だが大学とは学問をする場所ではなかったのかな。本当にやろうと思えば自分でこつこつやる外ないのだろう。現在のようなマスプロ教育において、何もかも学校側に期待すること自体が間違っていることはよくわかっている。それにしてももう少し学問的雰囲気がほしかったと思う。その意味でやはり真の学問をやる場としての大学院大学といったものも必要かもしれない。
講義から得たものよりも友達づきあいによって得たものの方がはるかに大きかったように思う。大学に入ってまず驚いたことは様々な個性にぶつかったことだ。特に東哲には変わった人間、良くいえば個性豊かな人間が多いからおもしろい。いやその頃はおもしろいなんてものではなかった。むしろ苦痛だった。というのは絶えず劣等感におそわれたから。特に議論が始まるともういけない。俺はだまって聞いているだけ、口を出そうと思うがなかなか出せない。たまに言ったとしても他人の受け売りか、つまらない一般論にすぎない。ちくしょう何ということだ。俺は今まで一体何を勉強してきたのか、今更ながら自分という人間の中味の空っぽなことを思い知らされた。劣等感、自己嫌悪…。こういうみじめな気持ちを味わって下宿の部屋に帰り、畳の上に仰向けになって天井とにらめっこ、そのうちに涙で目の前がかすんでくるということもあった。そんな時音楽に慰めを求めた。しかしダメだ。ただ無意味な音の流れが耳にとびこんでは出ていくだけだった。音楽とは読んで字の如く、音を楽しむものだ。楽しい気分でいる時に聞いた方が良い。
音楽といえば二、三年の頃はオ-ケストラに精を出したこともある。テクニックの未熟さから常に疎外感を味わいながらも、音の世界に埋もれてただひたすら譜面を追っかけている時はとても楽しかった。学生オケのあり方とかサークルのあり方などについて問題はあり、いやなこともあったけれども、とにかくすばらしいシンフォニーを演奏できるということはたまらない魅力だった。しかしその楽しさも徐々に薄れ、練習がおっくうになっていった。特にベートーベンの第九が終わった時は。第九は前からぜひやりたいと思っていた曲だ。初めてこの曲を聞いたのは高二の時だったがその時はえらく感動したものだ。特に第四楽章の歓喜の合唱のところでは、体がふるえてきて思わず舞台にかけ上がって一緒に声をはりあげて歌いたいという衝動にかられたほどだった。すれが今度はさしたる感動もなく、アッケなく終わってしまった。ただ聞くだけでなく、今度は実際に演奏するのだから、よりベートーベンの精神に近づけるはずなのに。その時は間違わずに弾くことで頭がいっぱいで、余裕がなかったのかもしれない。しかしそれにしてもである。演奏が終わって拍手を受けている時の気持ちは何ともいえないものであるが、その時となりで弾いていた奴が泣いていた。俺はそいつが無性にうらやましかった。俺は感受性まで鈍くなってしまったのかと情けなくなった。そんなこんなでだんだんやる気がなくなっていった。しかしわずかの間であったけれども直に音楽に接することができ、貴重な経験をしたと思っている。
本を読むことは読んだ。しかし本当に理解できたのはどれだけあるだろうか。乱読といえばまだ聞こえはいいが、うわつらをなでるだけの浅薄な理解に終わった場合が多かったようだ。少しづつかじってはすぐ他のにとびつくといった感じだ。こういうことになったのは、できるだけたくさん読もうという意識が強すぎたのかもしれない。これから改めじっくり読み返さなければならない本がたくさんあるようだ。この四年間をふり返ってみて、短かったけれどもやはりいろんなことがあった。早稲田騒動もその一つだ。あの時も俺の態度は軟弱だった。ただ思うことは、あれだけのことをやった割にはあまりに得たものが少ないということだ。あれだけ世間を騒がせ、マスコミにもとりあげられた大学の現状の問題点がさらけ出されたにもかかわらず、いったん平常に帰するとまたたく間に忘れ去られてしまったではないか。ストをやったこと自体は決して無意味ではなかったと思うが、どれだけ事態が改善されたというのだろうか。今後も値上問題が起こる度に又同じことをくり返すのであろうか。
それにしても問題の根は深い。政府の文教政策に問題があることはいうまでもないが、もっと深いところ、日本の教育の根本にまでさかのぼらなければ解決できない問題であろう。大学の大衆化ということ、つまり高等教育が広く普及すること自体はいいことなのかもしれないが、しかし大学の設備が拡張され外観が立派になるにつれて、中味が貧弱になっていくような気がしてならないがどうだろう。ほとんど遊んでばかりいてもなんとか卒業できるというようなことはやはり改めるべきだろう。高校までのつめこみ教育の反動で、大学では勉強の意欲を失い、のんべんだらりと過ごしてしまうという面がなくはないだろう。だから社会の大学に対する認識を改め、大学を真の学問の場に戻し、それと同時に高校までの教育を真の生きた教育にすることだ。高校が大学の予備校化し、更に高校入試のために中学の教育が破壊されるというようなことはぜひ避けなければならない。事は口でいうほど簡単ではないが、ここで教育制度を改めて考え直し、具体的方策を考えるべき時期にきているのではないだろうか。
とにもかくにもこれで学生生活ともおさらばだ。いろんな意味でやはり学生時代というのは最も良き時代なのだろう。しかしこれからはいわば大学という温室から一歩外へ足をふみだすわけだ。現代社会は巨大な怪物のようなものだろう。どんなにもがいてみてもそこからぬけ出すことはできない。所詮俺達は巨大なこの社会の組織の小さい歯車としての存在ならざるを得ないのかもしれない。たとえそうなっても次のことだけは忘れないようにしよう。社会といい組織といってもすべて人間が作ったものであるということ、国家や社会があって個人が存在するのではなく、個人があって、そして国家や社会が存在するのであるということを。歯車はたった一つきりでは用をなさない。他の歯車とかみあわなければならない。それが順々につながっていって多くの歯車とかみあった時、そこに大きな力が生まれてくるのである。だから歯車がさびつかないように絶えず油を補給していかねばならない。ところで俺には特別の才能はないし、金もうけもできそうにない。世渡りの術もあいにく持ちあわせていないようだ。だがこの俺のような凡人にも生きる道はあるはずだ。どんな道であってもとにかく安易な点で妥協や自己満足はしないよう気をつけよう。
最近、未来論なるものが盛んに行われている。曰く経済の発展によって日本は米ソに次ぐ大国となり、所得は倍増し、労働時間の短縮、レジャーの増大一家に一台の車、etc…だが、ボカアしあわせだな、などと泰平ムードに酔っているわけにはいかない。これらの裏側が必ず存在する。矛盾のない社会なんてあり得ないのだから、現在の日本は決して天下泰平ではない。マイホーム主義なんかくそくらえだと俺は思っている。しかし心の奥底のどこかにそういうものを求める意識があり、結局そういうものに埋没してしまいはしないか、それを俺は恐れる。そもそも人間の幸福とは一体何だろう。科学文明は急速に進歩し、更に無限に発展しそうな勢いである。だが人間そのものはどれだけ進歩してきたというのだろうか。とにかく自己の信念に基づいてやってみる外ない。人生とは試行錯誤の連続かもしれない。それでもいい。やってみないことには何もわからない。だけど戦争だけは絶対によそうよ。お互い、人生をたのしみたいもの。(三橋 実)

CIMG9912.jpg 展覧会場

P8020034.jpg クレパス画「とけい」北白川1年ろ組 8月5日

P8150009.jpg 木版画「カラス」

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クレパス画 北白川小学校2年二組 写生会展出品 支部図工展出品

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クレパス画「ひこうき」北白川小学校1年ろ組8月21日

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クレパス画 「ふね」北白川小学校1年ろ組8月18日
 
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1年ろ組7月25日
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                  「いえ」北白川1年ろ組8月1日

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クレパス画 紙芝居 ≪ふじぎなうす≫
 
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① むかしあるところに、はたらきもののにいさんと、なまけもののおとうとがいました。あるとき にいさんが山へいくと おじいさんがいしのうすをくれました。
② そのうすは、なんでもほしいものがでてくるうすです。にいさんはよろこんでうちへかえりました。「こめでろ、こめでろ、おこめでろ。」にいさんがそういってうすをまわすと、ざくざくおこめがでました。にいさんは おこめを村の人たちにわけてあげました。
「ありがたい、大だすかりだ。」村の人たちはよろこびました。
③ なまけもののおとうとは「あのうすをじぶんのものにしたいなあ」とかんがえて、あるひ、うすをぬすんでにげだしました。
「うみのほうならだれにもみつからないだろう」おとうとはそれをもって、うみのほうへどんどんかけてゆきました。
④ ちょうど 小さなふねがありました。おとうとはそのふねにのると、えっさえっさとおきのほうへこぎだしました。
はまべがだんだん とおくなって、なみもたかくなりました。「もうここならいいだろう。」
⑤ おきへでた おとうとは ふねをこぐのをやめました。「さて、なにをだすとしようかな。」そういって、おとうとはふねのなかにすわってかんがえました。「そうだ。おまんじゅうをたべるとしよう。」おとうとはいしのうすをまわしはじめました。
⑥ 「おまんじゅうでろ、おまんじゅうでろ。」おとうとが うすをまわすとおまんじゅうがころころとでました。「うまいな、うまいな。」ところがあまりあまいものをたべすぎたので、こんどはからいものがほしくなりました。
⑦ 「こんどはしおでろ。」おとうとがいいました。すると、いしのうすからは、しおがざらざらでてきます。「もういいよ。」おとうとはしおをちょっとだけなめていいました。
⑧ けれども しおは、あとからあとからでてきます。「もういいよ、もういいよ。」おとうとは おおきなこえで いいながら、とうとうふねといっしょにうみの中えしずんでいきました。しおのでてくるいしのうすもしずんでしまいました。いまでもそのうすが しおをだしているので、うみのみずは しおからいのだといわれています。(おわり)

クレパス画 紙芝居 ≪したをだしたほとけさま≫

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① 「ずいでん、ずいでん」とだれかがよんでいます。「だれだろう。おしょうさんはこんなにはやくおかえりになるはずはないし」とこぞうのずいでんさんはそっとまどからのぞいてみました。「おやおや きつねだ。」きつねがふといしっぽで「ずい」ととをこすってそれから「てんととにあたまをぶつけているのです。
② 「ぼくをからかっているな。よし。」ずいでんさんはきつねがとにあたまをぶつけるときに、いきなりとをあけました。それできつねはころころっとうちの中えころがりこみました。
③ ころがりこんだきつねは、いつのまにかほとけさまにばけてしまいました。「あれ。どっちがほんものの ほとけさまだろう。」ずいでんさんは こまってしまいました。
④ ふとずいでんさんは いいことをかんがえました。「ほんもののほとけさまは、おきょうをあげるとしたをだすから、すぐわかるぞ。」と大きなこえでいっておきょうをよみはじめました。「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。」するとしずかにならんでいるほとけさまの一つがあわてたようにちょっとめをぱちぱちさせました。それからながいしたを ぺろりとだしました。「ばかなきつねだ。」とずいでんさんはすぐさまきつねをつかまえてしまいました。「ごめん、ごめん。もういたずらはいたしません。」ときつねはあやまりました。(おわり)

クレパス画 紙芝居 ≪みずべのあそび≫

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① ある日、さんぽにでたうさぎのピーターくんは、おがわのきしにたって つめたい水をみておりました。ふとむこうをみると 雪の中にふしぎなあしあとがきしの一ばん高いところからながいみぞになって水ぎわまでつづいているのです。だれがこんな足あとをつけたのでしょう。ピーターくんは、ながいみみをかわるがわるひっぱりながらかんがえていました。
② すると「こんにちは、ピーターくん!いいおてんきですね。」という声がどこからかきこえてきます。ピーターくんはびっくりしてあちらこちらとみまわしましたがわかりません。ふと下をみると おがわのまん中につちいろのかおをだして目をぱちくりさせながらこちらをみているものがいます。ビーバーのジョーくんでした。「やあジョーくん、びっくりしたよ。」とピーターくんはいいました。
③ 「ピーターくんどうしてこんなおがわへやってきたの」とジョーくんはたずねました。「ぼくはね 雪の中にふしぎな足あとがあったので ずっとつけてきたんだよ。あちらこちらに足あとがあって これに一ぽんのながいみぞがつながっているんだよ。このきしの下にも、その一ぽんがあるよ。」とピーターくんはいいました。
④ ジョーくんは目をきらきらかがやかせながら「それはおかしいな、、、いったいだれが足あとをつけたのだろう」といいました。「ぼくはそれをしりたいんだよ。ほんとにふしぎなんだ。」「そうだね。よくしらべてみようよ。」といってジョーくんは おがわをいそいでわたって、ピーターくんのいるきしべへ のぼってきました。
⑤ ふふん、へんな足あとだなあ だれかがすべったあとらしいよ。ピーターくんねえ、いっしょにすべってみようよ そしたらわかるよ。」ピーターくんは あわてて すこしあとずさりしました。ぼくはいやだよ。あのつめたい水はだいきらいだもの。」とピーターくんはジョーくんにいいました。
⑥ ピーターくん、「はやくきてすべってごらん。とてもおもしろいよ。」ジョーくんは、うしろ足をきゅうにつよくふんばって うつぶせになって すべっていきました。
ピーターくんは、びっくりして、ジョーくんのすべっていった足あとをみていました。
「わかった わかった」あのふしぎなみぞと足あとはジョーくんがつくったのでした。
⑦ するとジョーくんとジョーおじさんはきしべのみぞをすべっていきました。こどもたちはまちきれなくなって、みぞをほっては、その上をすべっていきます。なんとたのしい水あそびでしょう。つめたい水の中にみえなくなるとピーターくんはみぶるいしました。
⑧ ジョーくんとジョーおばさんや、こどもたちはきしにつくとのこのことあがってきました。ピーターくんははずかしくなって木のかげにかくれてしまいました。
⑨ ピーターくんは、ふしぎにおもっていたことがやっとわかって大よろこびです。ピーターくんは あまりうれしくてジョーくんがどこへいったのかわかりませんでした。しばらくして ざぶんという音がしました。ピーターくんが お川をみると ジョーおばさんと、こどもたちがつづいて こちらへおよいでくるではありませんか。「やあ じょうずだな、、、」とピーターくんは みんながじょうずに およぐのをみて うらやましくなりました。
⑩ けれどジョーくんたちは すこしも こわがりませんでした。ちょうど まなつのときのように、雪のうえをすべっては、水の中にとびこんで たのしそうに およいでいました。
「ピーターくん はやくおいでよ いっしょにおよごうよ」ジョウーくんはこういいながら ぱっと雪をけってすべっていきました。ピーターくんは くびをふりました。すべるのは大すきですが つめたい水はきらいなのです。わたしは水のないところをすべるよとピーターくんはいいました。(おわり)

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クレパス画 紙芝居 ≪おおばなとんすけさん≫

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① 「なんといっても、わたしのはなは 村のなかで 一ばんりっぱだ。」これは、ぶたのとんすけおじさんの はなじまんです。らっぱのように上にむかってひらいていました。とんすけおじさんのところには、やぎや あひるや ねこだの にわとりの子どもが たくさん なかよくくらしていました。
②  「さあさ、これから 一じかんひるねだよ。みんなもおとなしく やすむんだよ。」まもなく たかいびきがおこりました。おいたのこねこが おじさんの なはのあなへ こよりをいれました。
③ 「はあーくしょん」みんな おじさんのくしゃみで、ふきとばされました。「かぜをひいたらしい。はあーくしょん。」くしゃみがでそうになるたびに、みんなは はしらに つかまったり、ベッドのしたへもぐりこんだりしています。
④ そのよるでした。とんすけおじさんは ふとんにもぐりこんで ねていました。よふけに わるい おおかみがきて みんなをつかまえて ばしゃに つめこみました。くるまが がたがたゆれるので「おおさむい」といって、おじいさんがめをさましておどろきました。
⑤ 「これはたいへん」といったときに おおきなくしゃみがとびだしました。おおかみとばしゃのやねがそらたかく ふきとんでしまいました。みんなはおおよろこび(おわり)

クレパス画 紙芝居 ≪そらとぶ ふね≫

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① ジャックがある日山へいきますと大きなわしがこびとをさらっていこうとします。ジャックがすばやくやをとばすとみごとにあたって、わしはこびとをはなしてにげました。
② こびとはおおよろこびで、いいました。「わたしのうちへいらっしゃい。まほうのふねをあげましょう。」それは、そらをとぶまほうのふねでした。
③ ジャックはこびとにわかれてたのしいそらのたびにでました。「あ、おしろだ。いってみよう。」
④ ジャックがおしろのいけにおりますとおひめさまがはなをつみにきていました。「まあ、まほうのふねね。わたしものせて。」こんどはふたりでとんでいきました。
⑤ すると、きれいなしまがみえたのでおりてあそびました。「ぼくはねむいよ。」ジャックがねてしまうと、ふとわるいこころをおこして、ふねにのってにげてしまいました。
⑥ おいてきぼりにされたジャックは、おなかがすいたのであかいいちごをたべますと、つのがにょっきりはえました。
⑦ あわててこんどはきいろいのをたべるとつのはぽろりと、とれました。
⑧ 「おや ふしぎだなあ。」
⑨ ジャックはそのいちごをもってやっとおしろへかえってきました。そしてうまくおしろのりょうりにんになりました。「このいちごのおかしをひめにたべさせてやろう。」
⑩ ひめは、ジャックのつくったいちごがしをおいしそうにたべてしまいました。すると大へん。みるみるひたいにつのがはえました。
⑪ つのはかたくててつのようです。そしてひにひにのびるのです。「いいきみだ。」ジャックはおかしくてたましません。でもしまいにジャックはかわいそうになりました。
⑫ そして、こまっている王さまのところへいって、いいました。「王さまわたくしがなおしてあげましょう。」
⑬ ジャックがきいろいいちごをひめにあげるとつのはすぐとれました。「どうですおひめさま。」「あっ、おまえはジャックね。ごめんなさい。わたしがわるかったのよ。」ふたりはなかなおりをして、たのしくくらしました。(おわり)

P7050043.jpg ICU室内写真、筆談のメモ(2016.4)

P7050044.jpg 娘とお別れ(2018.3.31)

P8170002.jpg 京都新聞2018年7月3日(火)朝刊(25地域)掲載記事
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3月逝去、左京の画廊主・三橋さんしのぶ
遺作を初個展 愛した場で きょうから幼少期の絵画や木版
 3月に亡くなったギャラリー揺(京都市左京区)の画廊主三橋實さん=写真=をしのび、家族らが3日から、遺作展となる初個展を揺で開く。「お別れ会は揺で」と書き残して逝った画廊主。個展は小学時代に描いた絵心豊かな紙芝居や木版画を飾り、めいのチェンバロ演奏者三橋桜子さんが故人の愛した音楽を演奏する。
 實さんは1968年から京都新聞社に勤務。退職した2005年、兄の慎一さん(81)の画廊「アートライフみつはし」(昨年閉廊)隣の棟に「揺」を開設した。2年前に胆管がんが見つかり入院。再入院した3月、72歳で他界した。
 4人兄弟の末っ子。6歳上の姉は、骨腫瘍で右腕を失いながら左手で描き続けた日本画家の故三橋節子。姉を慕っていた實さんも、子どものころから絵が好きだった。
 会場では、北白川小1年時の紙芝居「ふしぎなうす」など5話、オイルパステルの絵、木版を展示する。實さんの母から妻の登美栄さん(71)へ手渡されたもので、日の目を見るのは40年ぶり。大胆な構図や色彩感覚など小学生と思えない早熟さだ。慎一さんも初めて見るという。「アーティストにはなれなかったけど、節子を身近に感じて影響を受けていたのだろう」
 登美栄さんは「昔の作品も本人の一部。夫が常に横にいる気がする。童心の明るい絵を通して新しい発見、関係ができる。見る人も笑顔になってほしい」と話す。8日まで。
 演奏は3日午後2時、4日午後4時、遺言でリクエストしていたバッハやベートーベンの曲を演奏する。無料。揺は登美栄さんが引き継いでいくという。(河村 亮)

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三橋 實 略歴
1945.4.2 京都市左京区に生まれる
1958.3 京都市立北白川小学校卒業
1961.3 京都市立近衛中学校卒業
1961.3 京都府立鴨沂高等学校卒業
1968.3 早稲田大学第一文学部哲学科東洋哲学専修卒業
1968.4 京都新聞社入社
2005.4 京都新聞社定年退職
2005.9 ギャラリー揺開廊
2009.7 神戸市立市民中央病院入院 股関節症左脚手術
2016.2 大津市民病院緊急入院
2016.3~4 下部胆管癌 手術4回
2016.7 大津市民病院退院
2016.7~2018.3 大津市民病院通院治療
2018.3.19 大津市民病院再入院(3.27~29退院 30再入院)
2018.3.31 大津市民病院で亡くなる(享年72歳)

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「万が一手術中に何かが起こって、意識が戻らなかったら、封筒をあけて見て下さい。ミノル」
のメモ紙をクリップで留めた白封筒の中には遺書が入っていました。
≪三橋 實 遺言≫
癌で入院するまで僕は遺言なんて書くつもりは毛頭なかった。死ぬ時が来たら勝手に死んで、あとのことは任せるから好きなようにと思っていた。しかし死が現実味を帯びて、間近なものになってみると、やはり自分の思いを残された者に伝えておいた方がいいと思うようになった。
そこでとりあえず葬儀のことについて書いておく。無宗教なので一般的な告別式はいりません。区切りをつけるため「お別れ会」を揺で開いてください。遺影と花を飾る程度の簡素な形式でかまいません。読経の代わりにクラシック音楽を流してください。曲目はバッハのG線上のアリア、ベートーベンの交響曲第7番第2楽章、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」最終楽章
平均寿命からすれば70代の生涯は短すぎるかもしれませんが、なんの心残りもありません。好きなことをやってこれたし、本当に幸せ者です。天国で両親や節子が迎えてくれるかもしれません。
みなさん、これまで本当にありがとうございました。(三橋 實)

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≪死期・式・至喜≫
はじまりからおわりへ  <最愛のものたちに贈る 最期の記録>

■Prologue プロローグ
いま。 Just now!  鼓動が止まった。 
2018年3月31日午後9時だ。この世に生を受け、生まれ落ちてからちょうど72年間。
ボクの心臓が役目を終えたらしい。ごくろうさま。
人間の体は37兆個の細胞で成り立っているらしい。始まりは一つの卵細胞。これが「分裂」や「分化」を繰り返し、人体が出来上がる。その細胞たちも死んだり生まれ変わったりする「代謝」を繰り返す。
なんとも不思議な、良く出来たしくみだ。その細胞に酸素を供給するのが、血液に含まれるヘモグロビン。その血液を体中に巡らせるポンプである心臓がいま止まった。これよりボクの体内の37兆の細胞たちは、順番に、確実に、死んでいく。心臓が止まった時点でボクの体はもう動けないし、話せない。
「ご臨終です」というやつだな。この時点でボクはこの世にはいない「死に体」である・・・。・・と、思っていた。しかし、心臓が止まっても、瞳孔反射が無くなっても、外部からは意識が無いと判断されても、脳内の神経細胞が完全に死滅するまでは、記憶や意識があることを知った。しかも、さっきまであった体の痛みなどは全くない。むしろ最高な気分である。臨終の瞬間というのは、大変気持ちが良いことを知った。
「死」は万人から恐れられる、誰もが避けることが出来ない瞬間。「でも恐れることはないぞ」ということをみんなに伝えたかった。いや、それは些細なことかもしれない。最期の刻について伝えよう。
ただ、いつまでこの意識が継続するのか分からない。心臓が止まったことは間違いない。細胞も次々と死んでいくだろう。それは1分後かもしれない。10分後?1時間後?1週間? それとも意識は永遠なのか?死後の世界ってものが存在するのか・・・?当たり前だけど、さっぱりわからない。とても不思議な感覚だ。目は見えない。瞼が閉じているから当然といえば当然か。でも、見えている。今の状況が見える。
See:見る や look:見える というより appear:現れる という感じだ。自分の体を下に見下ろす感じであり、浮遊している感じもする。試しに時計を見た。無機質な壁掛け時計は秒針が時を刻み、今の時刻を指し示している。9時3分。今のボクにはもう正確な時刻は必要無いのだが。そのうち、「完全なる死」を迎える前に、思いつくかぎり、伝えたい事を伝えることを目的に、この文章を書こうと思った。結末がどうなるのか、ボク自身が分からない。

■「ing」(現在進行形)①
緩和病棟の個室。息子が部屋に入ってきた。緊張した面持ち。妻と娘が迎えた。「遅かったな、息子よ」 ボクはもう話をすることが出来ない。ただし、おまえがここに来てくれたことは、こうやって脳細胞が認識している。ちゃんとみんなの会話も聞こえているぞ。妻が言う「さっきから、呼吸が止まったような気がするの」お前がボクの腕を取り、脈を探す。脈が見つからないであろう。 心臓はさっき止まったからな。手と足の感覚はもうほとんど無くなってきたから、間違い無い。息子が声を発した。「先生を呼んでこようか?」でもそのあとの言葉がよかったな。「でも、苦しんでいるわけではない。覚悟も出来ている。それならば、ゆっくり家族4人でこの部屋でひとときの時間を過ごすのもいいかもしれないね。」
うむ。さすが息子だ。ボクもそれが良いと思うぞ。急ぐことはない。お前もいまここに来たばかりだからな。それぞれ4人が、過去や思い出を心に浮かべる。時間が止まったような、不思議な感覚がこの病院の一室に流れる。それぞれがそれぞれの思いを胸に。まぁ、ボクの体は実際に時間が止まっているわけだが。ボクも一緒に思い出に浸ってみようか・・・。

■Last night(昨夜)
娘のトモコが一晩中、この病室に泊まってくれた。ボクの手を握り、涙を流しながらいろんな話をしてくれる。トモコは結婚して、普段は遠く離れた横浜に住む。小学校の先生だ。何かあれば近況報告のメールをくれるし、夏休みや正月は孫のモモカを連れて遊びに来てくれる。一昨年の大手術のときや、今回の入院・退院時も春休みを利用して、ここ滋賀に帰ってきてくれた。自慢の娘である。昨夜はボクの体が言うことをきかず、うまくしゃべれなかったが、トモコの言葉は全て理解し、記憶した。本当に楽しく、うれしい時間を過ごすことが出来たよ。どうもありがとう。思えばこの1ヶ月は食欲がなく、ボクの体が急激に衰えてしまったのだ。

■1month ago(1ヶ月前)
どうも体調が良くない・・・。ごはんがうまくない・・・。どうしてこんなにも体が動かないのだ・・・。
腹も痛むし、とにかく動きにくいのだ・・・。これはいよいよか・・・。死神さまよ。ボクは「死」への覚悟は出来ているぞ。あの2年前に。 ボクは大手術をしたのだ。

■2years ago(2年前)
「胆管癌」これがボクを侵したモノの名前であった。「癌」という病全体の5年相対生存率は男性で59.1%、しかし、胆嚢・胆管癌は23.9%、膵臓癌の場合は7.9%となる。うむ。とても厳しい数字が並んでいるな。とりあえず、外科的手術を行い、癌の除去を試みた。しばらく入院だ。手術終了の数日後、体内での大出血。ここからの記憶はあまり無いのだが、20,000ccつまり20リットルの輸血をしながらも、なんとか一命を取り留めた。成人男性の血液量は5~6リットルらしいので、人間まるまる4人分以上の血液が入れ替わったということになる。どこかで献血をしてくれた、不特定多数の優しい人々に感謝。しかし、このときも妻を筆頭に家族には心配をかけてしまったぞ。胆嚢・胆管に加え、膵臓も除去したため、血糖値を調整するためのインシュリンを毎日自己投与する生活が始まる。健康なときには全く考えなかったが、血糖コントロールを含め、全て自動的に適切にコントロールされている生命維持のしくみは驚くべきものである。つくづく、人間の体とは良く出来ているものだな・・・。と感心してしまった。誰もが言う言葉だが、「病気になると【健康】の有り難みがよくわかる」

■everyday in the last 2 years(最後の日常) 
胆嚢や膵臓は無くとも、普段の生活は出来るものだ。思えば、長年勤め上げた新聞記者生活。普通の会社員とは少し異なる変則的な勤務環境であったが、ほぼ団塊の世代。忙しかった毎日。それとは異なるゆっくりした時間も良いものだ。ありがたいことに、記者時代の仲間が麻雀に誘ってくれることもあり、そのときは時間や病気を忘れて楽しい時間を過ごすことが出来た。みんなありがとう。ただ今回、ボクが同期の中で一番にメンバーから抜けてしまったことが申し訳ない。みんなとはなるべく遅く、あの世で再会することを望んでいるよ。あの世にも麻雀はあるのだろうか?
京都市内で開く「ギャラリー揺」に関わる仕事も再開する。療養中は妻や兄家族に負担を掛けてしまった。まぁ、しょうがない。病人は病人らしく。無理は禁物だ。出来ることをゆっくりと。
正月には恒例の家族集合も例年通り開催出来た。我々夫婦に、子供達家族。孫を含めると総勢9名の宴会。毎年、孫たちの成長を感じることが出来る。今年はアイちゃんが高校生、モモカちゃんが中学2年、ケイちゃんが小学6年生だ。輝かしい未来を担う子供達。戦争の無い世界になることを心より望む。閑話休題。話は戻る・・・。

■「ing」(現在進行形)②
先生と看護師を息子(マコト)が呼んできた。先生が脈拍を見る。聴診器をあてる。瞳孔反射を見る。ドラマでよく見るやつだな。「ご臨終です」 さもありなん。それはボクが一番よく分かっている。ドラマであれば、「お父さん!」と叫び、泣きわめくところか。が、ウチの家族はそんな感じはなかった。静かな最後である。まあ、それでよい。 そのほうがよい。
妻(トミエ)と娘(トモコ)は退院の準備に行動を移す。死してこの病室・病院を出ることも「退院」というのだな。そりゃそうか。自分ひとりの病室。静かな部屋。ここは膳所駅から近しい場所に建つ総合病院の9階、緩和病棟。積極的な治療は行わない。治る見込みが薄い… いや、ほぼ無いということだ。
窓からは比叡山系・比良山系と琵琶湖を望み、山と湖の間にひしめくビルや街並み。晴れた日には真っ青な琵琶湖の湖面がキラキラと輝き、真っ白な葉っぱのように見えるヨットが優雅に湖面を滑る。冬期は比良山系の頂上付近が白く染まり、目には見えないが比良おろしが琵琶湖に向かって冷えた空気を送り込む。四季折々、様々な様相で楽しませてくれるここ大津市に移り住んで、ほぼ半世紀だ。大きな災害もなく、大病することもなく、平凡無事に生きていくことが出来た。あ、最期に大病を患ってしまったのではあるが。。。
ボクは今回「延命治療を拒否する意思表明」の書類にサインをした。幸いにも家族みんなも同意のサインをしてくれた。後悔は無い。むしろ動けない・話せないのにむりやり栄養や酸素を体内に送り込まれて、生き伸ばされるなど、まっぴらゴメンだ。ただ、筋肉はとても衰えてしまった。栄養と運動の重要性を文字通り体で感じている。これも、生命の不思議だ。よく食べ、よく動き、よく寝る。生命維持の3原則。
それが出来なくなってしまった今、こうやって自分自身の体が活動限界を迎えた。しごく当然の成り行きであり、自然な姿であると、改めて思った。
ガチャ! 部屋の扉が開いた。マコトが家族を連れてきたのだ。ボクが息を引き取った報を受け、最後のお別れの挨拶をしたいということで、夜にも関わらず、この部屋まで来てくれたらしい。嬉しいではないか。よし、お小遣いをあげよう。・・・ということが、もう出来ない。 そうか。 カオリさん、アイちゃん、ケイくんとも最期のお別れだな。しゃべれないけど大丈夫。ちゃんとみんなのことはこの脳がまだしっかり感じているぞ。悲しい顔をして、涙を見せるみんな。ありがとう。「じいじ」は幸せな人生だったよ。 こうやって最後を見に来てくれて、本当にありがとう。
トミエとトモコが病室に戻った。マコトも、家族を家に送り届けてまたこの病室に戻ってきた。これからうれしい「退院」の時間だ。やはり病室よりも自分の家、自分の部屋が一番落ち着くのは、「死に体」になっても同じ。マコトが手際よく手配したのか、早速、葬儀屋が到着し、ボクの体は「退院」した。
そしてこの晩年、10年近く住む住み慣れたマンションの501号室へ。多くの「死に体」は、病室から葬儀を行う場所に直接移動するものらしい。そして、通夜・葬儀という儀式を済ませ、火葬場へ直行である。それはイヤすぎる。人生最後の我儘を「遺書」というやつに書き記しておいた。『「通夜」「葬儀」「読経」は不要である!』と。さすがに「そんなわけにはいかないでしょ!」 と、言われるかと思ってた。
しかし、さすがはボクの遺伝子を引継ぐ者たちよ。「うん。いいんじゃない?」と。いいのか? ゆるゆる家族だな、おい。ただし、葬儀はやるという。「近しい親戚には連絡・報告しないとね。」うむ。さもありなん。ともかく、ボクの体は無事に住み慣れた部屋に戻ってきた。
まだ意識のようなものはある。ただ、たまに「無」になる時間が出てきた。生前でいえば、ちょうど寝ているときのような感じだ。夢と現実が混ざり合ったような感覚。この「無」の時間が多くなったとき、精神的にも「死」を迎えるのだろう。もう終わりかな・・・・。

■One days ago(体が死した翌日)
目が覚めたような感覚。どうやら日が昇り、日付が変わったようだ。午前10時。まだ精神的意識が残っていたことに驚く。体は動かない。 少し涼しい。 そうか、ドライアイスが体に置かれている。
37兆個の細胞たちの生存率はもう、残り30%くらいか・・・。感覚だが。ずいぶん多くの細胞が役目を終えて、固まってしまった。かろうじて、脳内の大事な細胞たちが、ボクの自我を保ってくれている。
そういえば今日は4月1日か。エープリルフール。嘘をついても良い日らしい。今日ならば「死んだふりでした~」という嘘も許されるのであろうか?さすがにその嘘はダメな気がするので、やめておこうと思う。実際にやろうと思っても出来ないし。
昨夜は久しぶりにすっきり眠ることが出来たような気がする。本来の「睡眠」では無いのだろうが、目覚めスッキリの感覚である。体に痛みがないというのはなんという素晴らしいことなのか。睡眠は覚醒中に蓄積した疲労を回復すると同時に、エネルギーを節約するための最も効率の良い休養のあり方であるといえるらしい。健康体は良く眠ることが出来るから、その健康が保たれる。好循環。逆に病気や悩みがあり、眠れないときは体調が悪くなる。悪循環。いや、いまさら「死に体」で健康など、意味が分からないな。【健康のためなら死んでもいい】と胸の部分に書かれたTシャツを着て、死にそうになりながらランニングをしていたおじいさんを目撃した時にも思った。意味がわからない。ちなみに寝ているような状態の間、妻トミエがボクの顔をスケッチしていた。たまに「死後の意識」が戻ったときに気がついた。
じっと見られると、ちょっと照れくさい。ただ、わかったこと。「死してよかったことは、絵のモデルがラクである」固まって動かないのが苦では無いから。いや、もちろん動きたくても動けないのであるが。
さて、日が昇ったので生きている人たちの活動時間となった。トミエやトモコが、ことある度にボクの体に声を掛けてくれる。返事出来ないのが心許ないが、全て聞こえているよ。ありがとう。これでこそ、この部屋に戻ってきた甲斐があるというものだ。うとうとと日だまりの中で昼寝をする感覚がまさにぴったり。でも、もうこのまま意識が戻らなくなるかもしれない…そろそろ、、かな。

■Funeral Day(葬儀の日)
「目覚め」ということは、今のボクの体にはない。相変わらずの浮遊感だ。でもまだ生きていた。 いや、死んでいるのだが、意識が生きていた。午前中は、このマンションからほど近い息子家族が住む家の庭から、花や木の枝を集めて体裁良く断裁する作業を見守っていた。そういえば今から春、夏に向かって植物が花開く時期だ。植物も生きている。当たり前のことなのに今さら気づく。花が咲き、実がなり、枯れてもまた、種子から新たな芽が萌える。そう考えれば、ボクのDNAも確実に世代を超えて生き続ける。安心した。
いよいよこの部屋から出るときが来たようだ。葬儀屋のスタッフが、うやうやしくボクの体をストレッチャーに乗せ、葬儀会場へ移動する。今日の午後から「三橋家 葬儀」が行われるらしい。車に揺られ、ボクの「死に体」は人生最後の【式】すなわち「お葬式」に向かう。会場に到着。葬儀社スタッフや、わが家族が準備を進める。忙しそうだけども、手伝えなくて申し訳ないね。と思っていたら、棺に入れられてしまった。真っ暗で狭い・・・・ かと思いきや、問題無い。今までとほとんど変わらない。相変わらず浮遊した感覚で周りの状況も把握できる。「幽体離脱」という表現が一番近いのかな。ただし、体の中の細胞たちはもう残りわずかだ・・・。さすがに酸素供給が途絶えてから30時間を超えると厳しいな。
完全なる「死」が近づいてきたことを改めて実感する。そんな中、意識を集中させ会場の様子を覗うと、久しく会っていなかった懐かしい顔や、見慣れた顔が見えた。みんなボクのために来てくれたと思うと、照れくさいがやはり嬉しいものだ。「葬式など不要!」と思っていたけど、この感じはちょっといいかもね。ただし、無駄に大人数集めること、義理で行く葬式など、そんなものはいらない。
あ、息子がみんなの前で話を始めたようだ。そうか、始まるのか。葬式というやつが。ボクの人生、最期の「式」である。かなり意識がぼんやりしてきたけども、主役といえば主役だからな。ボクの体の中でまだ生きている細胞たち全員に告ぐ。「総員、戦闘配置に着け」「意識感度、全開」「発進!」特攻隊気分だな。おそらく自我崩壊もまもなくだ。
・・・・・・・・ボクの最期の式が始まった・・・・・・・ 意識を高めて感じる。
「本日はお忙しい中、ご足労頂きありがとうございます。父 三橋ミノルの葬儀を始めます」息子のマコトが仕切るらしい。喪主ってやつだ。苦労かけるな。「父は3月31日の夜、息を引き取りました」うむ。死んじゃったな。「実は、父の遺言がありまして。本日はちょっと特殊な葬儀となります。今回は読経と焼香がありません。焼香の代わりに、この前に並んでいる花や枝を父に手向けてください。この草木は、父が長年住んでいた家・・・今は私の家族が住んでいるのですが、その庭で成長した植物を準備しました。読経の代わりには、みなさんから父に声をかけてください。実は、本日4月2日は父の誕生日でもあります。お葬式のような感じですが、誕生日パーティーでもあります。ということで、我々家族も知らないような昔話や笑える話も大歓迎です。自由に会話してくださいね。礼儀・作法も不要です。変な言葉を使いますが、『楽しんで』ください。よろしくお願いします」なんと。息子よ。びっくりしているぞ。
葬儀屋さんのスタッフが。『笑ってもいいお葬式』望むところだ。「でははじめに、喪主の私から」焼香ではなく、花の手向け。読経ではなく声かけ。笑っていい儀式が始まった。
「ということでお父さん。今からみなさんがお父さんに声をかけてくれます。しっかり聞いてください。問いかけもあるかもしれません。でも、答えたくなっても返事しないで黙っていてくださいね。返事をすると、自分も含めてみんながびっくりするので。 では、よろしくお願いします」お? お前は私に死語の意識があることを知っているのか?逆にボクのほうがびっくりした。
あ・・・ 大事なところなのに。。。 死後の意識が・・・ 自我を保つことが厳しくなってきた。。。 残り細胞の限界かもしれない。。
「ミノルおじちゃん、Happy birthday!の歌を歌います♪」姪のサクラコ、旦那のパブロ、その娘のアマナが歌を歌ってくれた。素晴らしいHarmony 心地よい。意識が少し戻った。ありがとう。HAPPYな歌を歌う葬式なんて、最高じゃないか。 あぁ、完全に意識を失うのはもったいない・・・。
「・・・あと、ミノルくんは幼い頃、絵がうまかった。末っ子でのんびり屋に見えるかもしれませんが、兄弟でトランプなどゲームをしたとき、負けると『ウワァア~』と口惜しそうに泣いていたことを思い出します・・・」兄のシンイチが話をしていた。やめてくれ、兄ちゃん。そんな昔話。恥ずかしいじゃないか。
子供の頃は京都に住んでいた。哲学の道、銀閣寺に近い静かな街だった。末っ子のボクにはおねえちゃんがふたり。おにいちゃんがひとりだ。画家になったセツコちゃんとは、もうすぐ久しぶりに会えるのかもしれない。おとうちゃん、おかあちゃんはどうしているだろうか。死後の世界ってやつがどうなっているのか・・・?
生前は、完全なる「無」になると思っていた。今もそう思っている。だけど、こうやって心臓が止まってからも意識が残っていることを知った今、もしかしたら「無」ではないのかもしれない。死後の世界。良い国であることを望む。
「・・・たまにお隣さんから奇声が聞こえてくることがありまして、ストレス発散されているのかなぁ・・・と」あ・・・今度はお隣に住むキョウジさんか。これも恥ずかしいなぁ。だからというわけでは無いが、もう聞いてられない。このあたりで限界だ。。。 細胞もすべて…死期を・・・迎える・・よう・・だ・・・・・・・・・・・。

■Epilogue エピローグ
みんな、ありがとう。良い「死期」を迎えることが出来た。最高の「式」だったぞ。うまく「指揮」したな、息子よ。ボクの細胞も「士気」高く感じることが出来た。「史記」とは言えない「私記」をこうやってしたためることも出来、皆さんに送り出されることは「至喜」に堪えない。幸せだったぞ。「四季」のあるこの日本が、ずっと平和でありますように。わがDNAを引き継ぐものたち、ボクの人生に関わってくれた全ての人たちが幸せに残りの人生を全うすることを強く望む。これまでの人生、全く後悔は無い。ありがとう。
すべての人たちへ。
最愛のものたちへ。
さようなら。
ありがとう。
お元気で。
死後の世界がもしあれば、そこで逢いましょう。気長に待っています。決して急がなくていいよ。

■Postscript (追伸)
このように、葬儀の途中でボクは完全に「死者」となった。全く意識が無い、完全な「無」である。
それでよかった! と心から思う。なぜならば、あのまま意識があれば、あのあとすぐに、火葬場で焼かれる自分を体験することになったのだから・・・。それはさすがにまっぴらゴメンだ。

このあとの死後の世界について教えてほしい?  それは内緒にしておこう。あなたが死期を迎えたときの楽しみを奪うのは忍びない。ひとつ言えることは、すてきな「式」はやってもらったほうがいいと思うよ。<おわり> ⦅三橋實 | 代筆:三橋真(實の長男)⦆

<参考文献>
細胞の数:2013年11月発表 Eva Bianconiらの論文
脳細胞について:脳神経科学研究センター(理研CBS)ウェブサイト
癌における生存率等:国立研究開発法人国立がん研究センターがん対策情報センター
睡眠について:独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター(精神保健研究所・精神生理部)

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染井吉野の花々が満開を迎える2018年3月31日。病室の大きな窓から見えるブルームーンの満月が夜空に昇ったころ、三橋實は亡くなりました。本人の誕生日4月2日に親族葬儀を行い、亡きがらとお別れし、花吹雪は涙に霞みます。
夫の持ち物を整理し、夫の母が残していた實君のクレパス画を1枚ずつ丁寧に折りシワを伸ばしてプレスしました。沢山のクレパス画は、故人をもう一度この世に引き戻しました。――画用紙を前に、きれいな水色を塗っているミノルちゃんの笑顔―― 幼少期の實君との出会いは新鮮です。物故作家の作品を鑑賞している時に、時空を超えて今は亡き作家の制作中が蘇るのと似ています。
北白川小学校同級生のお友達から「みのるちゃんはお絵描き上手やったで~!」と聞きました。沢山の思い出話は尽きず、初耳のエピソードは残された者への宝物です。

夫の兄・慎一家族と一緒に企画した三橋實展です。
皆様ご一緒に故人を偲んでくださって本当にありがとうございました。
厚くお礼を申し上げます。 (三橋登美栄)

※追記 娘が「お父さんが作った紙芝居を小学生たちに読み聞かせるのはどう?」と提案してきました。
60年以上も前の小学生が描いたクレパス画を現代の子どもたちが見た時の感想を聞けるかもしれません。楽しみにしています。
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